仮説思考で考える人のための「99.9%は仮説 思い込みで判断しないための考え方」

データ分析だ、データサイエンスだ、

数字でものを語るべし、と最近よく言われる。

 

一方、数字ばかりが気になって、

数字に翻弄されてしまうこともあるのではないだろうか。

ビジネスの本質を見極められていないだろうか。

 

日々の我々のビジネスに対し、

数字や科学がどのようにかかわっているのかを

当書を読みながら考えてみていただきたい。

 

 

 

 

目次

 

プロローグ 飛行機がなぜ飛ぶのか?実はよくわかっていない

飛行機が空を飛ぶ原理として、

翼を通過する空気が下部分よりも上部分のほうが速く通過するので、

圧力の高いところから低いところ、

つまり下から上に持ち上がろうとする。

 

だから機体が持ち上がるのだが、

何故、上の空気のほうが速くなるのかは分かっていない。

この原理としては、下回転のかかったボールを思い浮かべるとイメージしやすい。

同じように、翼にも渦が発生しているらしい。「渦理論」だそうだ。

断言できないはずなのに、理論として成立している。

 

「『飛行機が飛ぶ』という一見当たり前の事実でさえ、

その本当の原因はさまざまな経験則による推測に過ぎず、

言ってみればただの『仮説』に過ぎないわけです」

 

地球温暖化の話だって、二酸化炭素が原因で温暖化が起こっているのか、

温暖化のせいで、二酸化炭素が増えているのかはわからないそうだ。

地震のメカニズムも、BSEも、解明されているというわけではない。

 

「私たちは『科学的にこうなる』などといわれると、

無批判に『そうなのか』と納得してしまいがちです」

 

「世界は仮説によって成り立っている」と思っている。

別に仮説だから駄目だというわけではない。世界を説明するのに役に立つ。

 

だが、何にせよ、最も万能と思われている科学ですら

「世界のモデル化」しか出来ない。

 

人間の持っているものだけで何かを完全に証明や、説明などは出来ない。

出来ることは、自分たちが最も納得できる「物語」を作り上げることだけ。

 

腑に落ちない部分はあるが、

社会を成立させるには何の問題もないし、それでよいと思う。

 

勿論、そこにある「事象」が起きているのかを、

不思議だと思わなくなってしまう。

それはそれで問題だが、別の問題である。

 

科学はあくまで「モデル化」であって、「真実」ではない。

 

なぜ、モデル化をするのかといったら、

モデル化したほうが、単純だし、分かりやすいし、後世に伝えやすい。

 

世界は曖昧なもんだが、我々は「納得」をしたい。

納得が出来ないことは不安につながる。

 

「不安」=「不快」である。

不快感を取り除こうとする=モデル化 である。

 

 

第1章 世界は仮説で出来ている

ガリレオが望遠鏡を作って大学教授たちに見せたところ、

「下界においてはうまく働くが、天上ではわれわれを欺く」といったそうだ。

 

「事実」というモノは何だろうか。思い浮かべてみてほしい。

私の思う「事実」というものは、「大衆が『そうである』と認めたもの」だ。

 

つまり、白いものを見て、世間の人が「白い」と認めたものでなければ、

それは白いものではないのだ。

逆を言えば、黒いものを見ても「白い」と認められていれば、

それは「白い」のである。判断するのは人間であるのだ。

 

「真実」が何だろうと、結局は人間の主観によって左右される。

極端に言えば、この世に「客観性」なんてもんはない。

 

全てのものには主観性が含まれているのだ。

 

常識という名の「呪縛」によって、

コペルニクスにも惑星が楕円に太陽の周りを回っていることが

わからなかった。

 

「常識」とはなんだろうか。

プロローグにて言ったように、「大衆に認められたモノ」だと思う。

つまり、それが正しいかどうかはどうでもいい。

(そもそも正しいとか判断すら出来ない。)

 

「われわれの世界観、われわれが親から教わること、

われわれが学校で教わること、そういったものは全て仮説に過ぎません」

「しかし、われわれの常識が仮説に過ぎない、と自覚している人はあまりいません」

 

 

常識が仮説にすぎないと自覚できない。

その原因はもちろん「科学の説得力」だ。

科学の利点は説得力のあることだ。

 

だがしかし、何故「説得力」を持つのだろう。

普遍性があるように見えるからだろうか。

 

科学法則は世界中のどこでやってもほぼ同じ実験結果になるから、

普遍性があるように見えるのだろう。

歴史が長いのも説得力を持たせているのだろう。

 

この章の最後では「常識を疑え」とのことだった。

 

 

第2章 自分の頭のなかの仮説に気づく

実験と理論の関係は、

「実験は、理論の種みたいなものを見つけるために行われる」そうだ。

「科学の進歩」とはこのように帰納法であるわけだ。

 

だが、ピエール・デュエム曰く

「理論を倒すことが出来るのは理論だけである」

=「仮説を倒すことが出来るのは仮説だけである」だそうだ。

 

データというものはあるひとつの事実であって、そんなに説得力はない。

データは何も言わないのだ。

 

データは私たちの作り出した「物語」の登場人物の一人でしかない、

それも脇役のうちの一人である。

 

「いまある枠組みに都合のいいように、事実のほうがねじ曲げられてしまいます。

でも、本人には意図的に事実をねじ曲げたという意識はない。

自覚がないから、自分が特定の仮説に縛られていることにも気づかないのです。」

 

「『はじめに仮説ありき』と知ることは、

単なる机上の空論ではなく、実人生にも十分役立つことなのです(例 バブル経済)」

 

ミリカンの実験について、電気素量の発見をしたのだが、

実は論文に載せたのはデータの3分の1で、残りは切り捨てていたそうだ。

 

だが、ここで誤解してはならないのだが

結果的にはそれで良いわけである。

 

重要なのは「認められること」なのだから。

 

結局著者がここで言いたいことは

「古い仮説を倒すことが出来るのは、その古い仮説の存在に気づいていて、

そのうえで新しい仮設を考えることが出来る人だけなのです」だそうだ。

 

 「仮説の呪縛から逃れる万能薬などありません。

ですが、できるだけたくさんの仮説を見比べることにより、

誰でも、支配的な仮説を疑うことは可能なのです」

 

「この世界は相対、比較によって成立している」ともいえる。

つまり「絶対はありえない」わけだ。

 

自分たちに出来ることは、あるものを「絶対的だ」と信じ込むことぐらい。

 

結局言いたいことは、

「世界は不安定なものであること」

「私たちに出来ることは、信じること」

「そして、信じさせうる『物語』を作り出すこと」この3つだ。

 

第3章 仮説は180度くつがえる

3章は具体例が多く列挙されている。

 例えば、ロボトニー手術…前頭葉を切って精神病患者の治療。

脳科学が進歩して、前頭葉の重要な役割などがわかってきたり、

薬物療養の進歩により、ロボトニー手術の副作用面ばかりに焦点が当てられた。

結果として、世論は180度覆ってしまったという話である。

 

つまり言いたいことは、

「時代によって『正しい方法』は変わる」ということ。

 

「世の中に未来永劫正しいことなんて存在しない。

なぜなら、人間の考えることは、すべて『仮説に過ぎない』からです。」

 

「少々きな臭い話になりますが、

現在、科学の世界では『話題づくり』が大切なのです。」

話題づくりの大切さは、研究費の予算をつけるためというのもあるだろう。

 

 

第4章 仮説と真理は切ない関係

 科学の定義というのは、「反証可能性

つまり、「科学は常の反証可能なものである」ということらしい。

「ひらたくいえば、理論に反する実験や観察がでてきたら

その理論は駄目だということを潔く認める、それが科学ということ」

 

現代人のほとんどが科学史について知らないのは、

いきなり専門分科が進んだ「科学」を西洋から丸ごと輸入してしまったから。

 

日本が科学というきわめて重要な人間の文化的営みを

本当に自分たちのモノにするためには、

もっと科学史や科学哲学の教育をしないと駄目だと考えています。

 

ただ、科学は歴史よりもその実用性のほうが重要視されている。

 

だからこそ、その応用についての講義が多いのだろう。

所詮は過去の遺産だ。過去があってこその現代だと言われたら

特に言い返す言葉がないかもしれない。

 

「科学は全て近似に過ぎない」それは「証明が出来ないから」だと思う。

 

 

第5章 「大仮説」はありえる世界

 ダーウィンの進化論やビッグバン理論など起源の話についての仮説を説明してる。

超ひも理論の仮説の現在の状況について。

 

あまりに難しい話で今まで、

絶対正しい話だと思っていたら、どうやらそうでもないようだ。

 

「結局のところ、一番悪い教え方は、

分かってないことを分かったようなふりをして教えることです。」

 

教育の現場にて、

よくわかっていないことを、

さも知っているかのように教えられることは多い。

 

自身で調べ直さないことも問題だが、

暗記物のようにただただ覚えさせる学校方針というのも課題があるだろう。

 

第6章 仮説をはずして考える

「相対的にものごとをみる」

役割理論という理論がある。

 

どんな人間でもたくさんの人格、つまり「役割」を演じているのです。

誰でも自然に、無意識に人格の変換を行っているんです。

 

だから、精神的に不安になる。

それゆえに他人に対し、「コイツはこういうやつなんだ」と決め付けて見てしまう。

 

その人全部を見ることなんて不可能だ。

一部分だけで評価せざるを得ない。直感でみることも大切だと思う。

 

直感は「無意識」の行動だ。

深層的に感じたことは、うそがないと思う。

 

「人は見かけが9割」とも言われる由縁かもしれない。

 

また、「相対性理論」についての分かりやすい説明がある。

簡単に言ってしまえば、人間の数だけ時間があるという理論だ。

面白い考えだと思う。

「相対世界」を「時間」に焦点を絞っている理論ということだ。

 

 

世界ってのは、自分たちがいて、それを取り巻く環境があって、

その環境には「社会通念」というものがあって、(つまり共通価値観)

私たちはその価値観を生まれながらにして与えられている。

 

 

第7章 相対的にものごとをみる

ホーキングの理論について、

ホーキング自身についての説明がある。

ホーキングは実証論の人らしい。

 

つまり、ある物事が存在するかしないかは重要でないということのようだ。

「整合性さえとれればよくて、

実際に整合するための対象が実在しようがしまいが知ったこっちゃないんです」

ということらしい。

 

「共役不可能性」とは、まったく同じ言葉でも意味合いが違って、

翻訳することが出来ないってことだが、

話が通じないのは、自分の仮説が相手に通じていないということなのです。

 

また、相手の仮説を自分が理解していないということでもあるのです。

 

 

「世の中に100%の客観などありえないのです」

つまり、客観とは主観の寄せ集めで、世界は主観で成り立っているというわけである。

 

問題はどうやってバラバラな主観的仮説どうしの間を「翻訳」し、

全体をうまく強調させるか、なのです。

 

ということだが、「間主観性」が必要らしい。「間」という意味だが、

「相手の立場になって考えてみる」ということが重要だということ