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理系白書 この国を静かに支える人たち

理系、文系という言葉は、

いままでどれくらい聞いただろうか。

 

高校生ぐらいから、自分は理系だから、文系だからという言葉で

ラベル貼りをしていた人がほとんどである。

 

ここでは、理系と呼ばれる、研究に携わっている人々に焦点を置きながら、

自分たちの明日からの生き方を考えてみよう。

 

「自分は文系だから関係ない」と思った方にほど、

読んでいただきたいと思っている。

 

理系白書 この国を静かに支える人たち (講談社文庫)
 

 

 

 

文系の王国

文系のほうが、優遇されている政策らしい。

国家公務員Ⅰ種の資格を得るならば、文系のほうがよい。

理系だと、出世しづらいし、出世するのも遅い。

 

思ったことといえば、どうして文系と理系をはっきりと分けてしまうんだろうか?

中途半端になることを恐れているんだろうか。

確かに、専門に特化していたほうが進歩はあるだろう。

100あるものを0と100に分けるのと、50と50に分けるのは大違いだから。

でも、文系にも理系の知識、理系にも文系の知識は必要だと思う。

特に国を動かすような人たちには不可欠かと思う。

文系と理系をはっきり分けてしまうって、

普通科であれば、高校2年ぐらいの時にはもう、どちらかに分かれる。

 

どんな仕事があるか、どんな研究があるかについてあまり知識がない状態で、

ある程度(かなり大きな)人生の方向というものが決められる気がする。

あとから、違う方向に興味がわいたとき、引き返せる人は少ないのではないだろうか。

 

引き返したいけど、今までのかけた時間を無駄にしたくないと考えるかもしれない。

マーケティング用語で「サンクコスト」とも呼ばれる。

かけたコストが高ければ高いほど、失うことを恐れるということである。

 

権利に目覚めた技術者たち

青色発光ダイオードを発明した中村修二氏。

特許権は2万円ほど。日本の技術者の開発意欲が削がれてしまう。

 

「日本には、失敗を許す投資家と再起を励ます文化がない」

最近の企業には、画期的開発を行った研究者に対し、

最高で数億円の報奨金を出す制度を採用する企業が相次いでいる。

 

文を読む限りでは、技術者の扱われ方に疑問を抱かざるを得ない。

海外の制度と比べてみて、日本の制度は個人には不利である。

 

だが、どうして技術者は独立していかないのだろうか、

うまくいかなかったときのリスクが大きいということだ。

 

なお、最近では、クラウドファンディングやスタートアップの台頭で、

技術者が挑戦しやすい環境になってきているとは思う。

 

必ずすばらしい開発ができるとは保証できないものだ。

だからこそ、投資者にとっても多少のリスクはある。

ならば、まず国が対策をするべきだろう。

国の財政はそこまで首が回らなくなっているだろうか?そんなことはないだろう。

下らない道路工事などしている余裕があるのだから。

こういう点では、日本における文系と理系の差が明確化している気がする。

 

博士ってなに?

「博士」の人口が増え続けている。

ポスト不足による就職難など、将来はかなり不透明。

東大生の理系の1日あたりの勉強時間は平均4時間ほど。(授業をのぞく)

「企業が期待する博士は、

研究成果が役に立つかを見極める力を持った即戦力の専門家。

しかし日本では、博士の専門性が企業のニーズに合っていない。」

「博士は一、二年で大学に戻ってしまう人が少なくない。採用しても、リスクが高い」

 

ポスドクについて、

文部科学省は「さまざまな研究の場を渡り歩いて知識を深め、独創性を伸ばす好機、

いわば武者修行」と説明する。しかしそれは不安定さと背中あわせだ。

しかし一番の問題は研究の素人である官僚が研究者を管理していることです。

 

日本の研究者をどうするべきなのだろうか。

問題としてはやはり、官僚が研究者に対する知識がないのがあげられる。

やはり、理系官僚に、もう少し地位が与えられるべきだろう。

職に困る研究者の現状は同じ理系の人間にしか分からないのだから。

でなければ、博士になる意味というものが無い。

よっぽどの奇人しか博士になろうとしないだろう。

 

教育の現場から

「今の日本人は『なぜ』という問いかけが出来ない。

科学とは、まさに『なぜ』そのものなのに」

受験システムと、それに振り回される学校教育も、科学との距離を広げているようだ。

「知識をいくら教えても、興味や関心がなければ、いつか0になってしまう。

大事なのは、科学への好奇心を育てることです。」

「日本人は間違うのは恥だという意識がある。分からないことを、もっと面白がりましょう。なぜ?で始まり、考えて獲得した知識は、本当に生きた知識になる。」

 

教育の現場からは理科というものが離れつつある、

という内容だったが、それは理科だけではないと思う。

 

社会に関しても、数学に関しても、他の教科も同じことは言えるはずだ。

つまり、「なぜ」という感覚が離れているということだ。

 

では、どうしてその感覚が失われているんだろうか?

やはり、受験というシステムのせいではないだろうか。

入学試験で受験生に求められるものは、ずばり「正解」である。

たとえ、どんなに学問の深い部分に興味があろうと、正解できなければ意味がない。

だからこそ、学校での学問のあり方に問題が出るのではないか?

高校では、主に「得点」をとる技術を教え込まれた気がする。

それは自分だけじゃないと思う。

高校だって生徒を大学に進学させなければ人気が落ちてしまうからだ。

 

学生たちには「なぜ」を大切にしてほしい。

高校時代にしか出来ないことを大切にしてほしい。

高校生の段階で、人生についていろいろと考えてほしいと切実に思う。

 

本当に大切なのは、正解なんかではない。正解にいたろうとする努力。

あとからついてくるものは結果だけである。

必要な場というのは、「なぜ」を考えさせる場である。

「なぜ」を考えさせれば、あとは生徒の自主性に任せればいい。

考えるためのきっかけを与えれば、学生というものは活発になるものだ。

 

理系カルチャー

「若い研究者たちは必要に迫られない限り、外との付き合いをせずに済む。

それで世界が完結するんです。」研究は時間と手間を食う。

没頭すればするほど研究室に閉じこもりがちになり、その価値観に染まっていく。

「社会の動きに見て見ぬふりをするのではなく、

科学者は独立の立場でもっと意見を言うべきだ」

「科学技術をどう推進するか、あるいは規制するか。

科学者、行政、市民の三者が連携しながら決める新しい仕組みが必要だ。」

湯川秀樹にあこがれたし、大学時代に朝永振一郎ノーベル賞を受けて、

なんでも科学で解決できるような万能感を持ちました。

しかし現実の物理屋の世界に入ると、物理法則の大半はすでに見つかっており、

残っているのは重箱の隅の煮しめの切れ端ぐらい。」

 

やっぱり、理系は外部との関わりを持とうとしたがらないし、

持たなくても世界が成り立っているようだ。

自分の好きな研究に没頭すればするほど、外部からの価値観が除外されるし、

つながりが減っていく。そんな世界に暮らしたいだろうか。

別に研究者になったとしても、外部の関わりを持とうとすればいいだけなのだが。

その世界が自分の世界の中心になるのは我慢できないと思う。

 

理系にしろ、文系にしろ、両方の知識が必要であることは言うまでもない。

問題はどちらに重点をおくかである。

受験などでは、「理科嫌いだから文系。」「国語嫌いだから理系」で済んだが、

社会に出たらそうはいかない。

 

女性研究者

「学問の独立」が研究室の閉鎖性を助長し、セクハラの被害が隠れがち。

教授―学生というように、権力関係が明らかで、多くの場合、女性が弱い。

発覚しても組織がちゃんと対応できない。

「女の子だから」「女のくせに」

こうした社会の束縛と、あこがれる対象の少なさが、

女性を科学・技術から遠ざけているとみる専門家は多い。

 

「科学への基本的な関心に男女差はない。

社会的な原因が女子の理科離れを加速させるのでは」

企業が積極的に、女性を責任ある立場に登用することで、

女性の意識が変わり、女性に対する男性の見方も変わるはずだ。

 

いまや女性の社会的地位も男性の地位と同等な時代であるのに、

過去の亡霊とも言うべき固定観念、古き価値観が私たちを苦しめている気がする。

問題はどこにあるのだろうか、もちろん若者にも問題はある。

 

自分たちの価値観が、実は自分の親たちから受け継いだものだと気づいていない。

 

もちろん、その価値観を正しいものとして、

自分の子供に刷り込んでいる大人たちにも問題はある。

さらに言えば、その大人たちを育てた社会全体。

問題が社会にあるとするならば、私たちに出来ることは何があるだろうか。

 

とりあえず出来ることは「考える」ことである。そして、「気づく」ことである。

時代が連続的であるから、劇的な変化というものはそう簡単に実現はしない。

徐々に社会が変化していくことを目指すべき。

少なくともメディアが積極的に動かない限りは、本当の平等社会は実現しないだろう。

 

失敗に学ぶ

内容は主に具体例がおおい。

失敗から大きな発見を学ぶってのは、別に理系限定じゃないよね。

文系だって理系だって、失敗を活かして次に臨む。

ただ、理系研究者に関しては、1番以外は評価されないこと。

 

研究における失敗は社会全体に利益をもたらす発見の種になりうるが、

文系人の失敗ってのは、その企業にのみ利益になるというイメージがある。

 

変革を迫られる研究機関

「これまでの大学は、巨額の国費を使って得た知の財産を溜め込むだけだった。

それを社会に還元しなければ、いずれ研究費が得られなくなり、大学はつぶれる。」

 

法律の改正で国立大の共感がベンチャーの役員を兼業できる体制が出来た。

ベンチャーは経済活性化の起爆剤といわれる。

長年の研究成果が蓄積されている大学や研究所は、さしづめ「宝の山」だ。

「10に1つ(成功すればいいほう)」といわれ、

ベンチャーのジンクスは大学発でも同様のようだ。

「いい技術だけでは駄目、必要なのは経営手腕を持つパートナーと、

軌道に乗るまでの資金。」

 

これからは、大量生産の技術だけではなく、新しい知識・技術に基づいた、

知識集約型の製品やサービスを日常的に送り出すことが求められます。

その意味で、独創的な「知」の源泉としての大学が今ほど注目される時代はない。

大学などで生みだされた「知」を産業に結びつける枠組みとして、

産学官の連携強化やベンチャー起業の促進、地域での研究開発能力を集積する

「知的クラスター(ぶどうの房の意味)」の形成、知的財産の戦略的活用が重要。

 

 

研究と金

選択と集中」。企業の研究のいまを語るキーワードだ。

採算にこだわらない自由な時代はバブル崩壊とともに終わった。

成功するテーマを選び、効率的に設けることが求められる。

「研究開発は企業の生命線だが、実用化が前提だ」面白い研究をしている人は多い。

ただ、その価値を見極められる人が少ない。

官僚さんは優秀で判断も早いが、研究を本当に分かっている人が少ない。

つい近視眼的、安全志向になる。

 

 

独創の方程式

研究者は転職しづらい。

フロントランナーに必要なのは「専門性」と、それを裏打ちする「幅広い視野」だ。

しかし、日本の大学には、こうしたタイプの人材育成を阻む構造がある。

たとえば、学部を卒業した後、同じ大学の大学院に進み、

同じ研究室で助手、助教授、教授と進む「純粋培養」の問題がある。

「純粋培養は短期的には効率がよいという利点があるが、

長期的に国の総合力を考えると、研究者の知識や発想などが均質に陥りやすく、

とっぴで独創的な研究が生まれにくい。」

 

独創性が大事であるが、日本の大学院の状況では独創性は生まれにくい。

つまりだ、いろんなことを経験することと、何事もやってみることが大事。

大学によくある、閉鎖社会的な世界を何とかする必要がある。

 

企業のように、異動が頻繁に起こるぐらいでなければ、

研究者の知識ってもんは広がらない。世界も広がらないように思える。

 

文理融合

「理系出身者が社会の表舞台で活躍する場面はもっと増えてくるはず。

理系人は研究所に閉じこもるのではなく、外に飛び出すべきです」

 

結局、この本の言いたいことはここに集約されている。

文理は融合すべき。いや、そもそも文理の区別自体をなくすべきだと思う。

しかし、この体制が改善される日は来るのだろうか?

 

理系が社会の裏方であることはきっとこれからも続いていくだろう。

私たちの親がいて、その価値観を受け継いでいる私たちが生きている間は、ずっと。

 

 

決して悲観的な結論を書きたいわけではないが、

この書籍を読んで、「自分は何をしたいか」、「自分に何が出来るのか」を、

考えることが重要。

 

子供がいるのであれば、

自分の子供にはどのように育ってほしいか、考えてほしいかを、

見つめなおせばよい。

 

自分一人であれば、明日からでも、 自分の考えを変えればよい。

理系だから、文系だからという言葉に惑わされないようにする。