社会的ジレンマ「環境破壊」から「いじめ」まで

マーケティングの力で、

社会への影響を生み出せないか考えることはないだろうか。

SDGsの達成に、マーケティングの力を活用できないだろうか。

 

よりよい社会の実現のため、

心理学、マーケティングの力は有効に働くといえる。

 

その前に、まずわれわれの社会で何が起きているのかを理解し、

次のとるべきアクションを考えてほしい。

 

社会的ジレンマ」を理解することが、

問題解決の第一歩でもあり、

SDGs達成のための第一歩でもあるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

社会をコントロールするための科学を目指して

「本書のテーマである社会的ジレンマとは、私たちが作り出している社会を

自分たちでコントロールできないでいる状態のことです。」

社会的ジレンマを考えることが充分にコントロールできていない社会を

コントロールするための科学を作り出すための研究だということだ。

 

イソップのねずみと環境破壊

環境破壊はなぜ起こるのか

わかってはいるのだが、やめられないというのが原因の問題の場合、

つまり、「社会的ジレンマ」である場合、

自分ひとりが対処したからといって、

すべてが解決されるわけではないというのが問題なのである。

 

社会的ジレンマ」の定義とは、

こうすれば良いと「わかっている」協力行動をとると、

その行動をとった本人にとっては、

その行動をとらなかった時よりも、好ましくない結果が

生まれてしまう状態だと定義できます。

 

(例)「共有地の悲劇」イギリスの農村の共有牧草地、

コモンズに羊などを放牧していたが、産業革命の結果羊毛に対する需要が急増し、

たくさん羊を放牧しすぎたために牧草の根まで食べてしまって、

翌年に牧草があまり育たなくなったということ。

 

特に一番の社会的ジレンマの代表が「環境問題」だということだ。

 

内容をまとめると、みんな利己的に行動していたら、全体に損害があるが、

だからといって利他的に行動しようとしても、

他の人々が利己的に行動しているので、個人だけに損害が生まれる。

全体が利他的に行動していれば、全体に利益があるのだが。

 

経済学では「個人(または企業)は自分の利益が最大になるように行動する」

と考えられていて、ソレが正しいと考えるならば、

結局、みな利己的に行動するだろう。

 

最善策は、利己的に行動することが、

個人にもっとも不利益があるような状態にすることしかないだろう。

 

他にも「予言の自己実現」というものがある。

第一次石油ショックで、トイレ紙、洗剤を買いだめに走ったがために、

実際にそれらが不足してしまったという話。

普通に使っていれば足りていただろうこと。

 

東日本大震災でも同じようなことが起きた。

不安による買い占めで、コンビニからものが消えてしまったのだ。

 

どうして社会的ジレンマがこんなに重要な問題になったかというと、

「社会の流動化」、「社会の人口、生産性」らしい。

 

社会的ジレンマの発生メカニズム

社会的ジレンマの問題は個人にある、と思うかもしれないが、

そうではないことは歴史が証明しているそうだ。

社会主義国の失敗が代表的だろう。

「他人の行動に全く影響を与えることが出来ないのであれば、

自分の利益だけを考える利己主義者は、絶対に協力的行動をとらないはずです。」

 

囚人のジレンマ」という有名な実験が存在する。

社会的ジレンマの2人のときの問題だというが、

まったく社会的ジレンマとは関係ないとは思う。

2人だけなら、互いの考えが通じ合う確率はすごい高いのだが、

それが例えば100人で実験したらどうだろうか。

確実にみんな、非協力的行動を取るものと思われる。

99人全員に協力的行動を取らせることは現実的に難しいということである。

 

不信のジレンマと安心の保障

囚人のジレンマで紹介された、

「応報戦略」は、複数の集団では意味が無いといっている。

勿論のことで、大きな集団の中では個人の影響力は皆無だ。

 

権威主義的パーソナリティの持ち主は根深い不快感や無力感を持ち、

他人を信用することが困難で、不信感の解消のため、

力を持った権威と一体化しようとする傾向が強い。

 

他人との関係において、支配・服従または上下関係を気にして、

非協力的行動を取りやすいということだ。

 

それに関し、

ホッブズは「万人の万人に対する闘争状態」という社会的ジレンマ

これを解決するために社会契約論を唱えた。

 

人々は、社会的平和の必要性を理解しながらも、他人を信用できない。

自発的な協力により、社会的ジレンマを解決できないでいる人々は、

自分たちの独立と自由を少なくとも部分的に放棄し、

公権力にゆだねることにより、安心の保障を得ようとするということだ。

 

簡単に言うと、非協力的行動をとる人々の行動を強制させるため、

公権力を行使するということ。

 

 

互いに信頼関係がないと協力的行動を取れないのであれば、

その信頼は政府が請け負う。

それが協力的行動を増やすための最善策だろう。

 

言い換えるなら、「アメとムチ」だとも言える。

 

しかし、「アメとムチ」は麻薬中毒的である。

自分から何か成し遂げようという、「内発的動機づけ」が減少しするためである。

 

「アメとムチ」という外的要因がその行動の原因帰属になり、

自ら進んで協力するという動機づけが弱くなるだけでなく、

他人が協力してるのは進んでではなく、

「強制的だから」という認識をするようになる。

 

例えば、絵をかくのが好きな保育園児に、

絵を描いたら飴をご褒美にあげるようになると、

自発的に絵を描くのが好きだったはずなのに、

飴をもらわないと絵を描かなくなってしまったという実験がある。

 

 

 

 

「かしこさ」の呪縛を超えて

 大体の人は「みんながやるのなら自分もやるが、一人だけ馬鹿を見るのはいやだ」という考え。

 

学術的には「互恵性原理」これは「応報戦略」とは違って、

相手の行動を変えようという目的は無い。

みんなが協力してくれるのなら自分も協力する、

しないのなら自分もしないということだ。

 

コロナ禍の市民の動向をみると、納得のいくことが多かった。

自粛警察という言葉が生まれたりしたのも、自然のことだと思える。

 

経済学的に考えると、「個人は自己の利益を最大にするように行動する」ので、

その考えによれば、多数の意見に同調することが自分の利益になるということを、

無意識的に、直感的に感じているんだろう。

 

社会的ジレンマの「解決」を求めて

匿名性の高く、緩やかに組織された集団では

社会的ジレンマを解決するのは困難だということ。

全員の協力的行動が最も利益をもたらすということを全員が理解すること。

 

非協力的な人々によって協力的人々が一方的に搾取されない環境が必要。

「みんなが」主義者がほとんどなので、

「アメとムチ」は協力・非協力のバランスに注意して使う必要があるらしい。

感情で動いたほうがコミットメント問題(自分を制限しないと解決できないような問題)を解決しやすい。

なぜなら合理的行動というものは、

過去に合理的であった行動は、現在では合理的ではない場合があるから