逆境経営ー山奥の地酒「獺祭」を世界に届ける逆転発想法

「獺祭(だっさい)」という日本酒をご存じだろうか。

いまや聞いたことがない人はいないのではないかというほど

有名になった日本酒であろう。

 

獺祭はいかにして有名になったのか、

それまでにどういった苦難があったのかを紐解き、

日本酒業界の構造や、

酒蔵がどのような道を目指していくべきなのかを

考えるヒントにしたい。

 

本レビューに書ききれなかったことも多いので、

是非本を手に取って読んでみてほしいと思う。

 

 

 

 

 

レビュアー自身、

獺祭の成功物語は、人づてにしか聞いたことがなかった。

 

「日本という成熟した市場で戦わず、

海外でのマーケティングがうまくいったから成功したのだ」

とか、

「海外でブランディングしてきたものを逆輸入したのだ」

とか、聞いたことをそのまま真実として受け取っていた。

 

勿論、成功要因としてあったのだろうが、

当書籍を読んで、それは本質ではないということを理解した。

 

どうやったらうまくブランディングができるかとか、

浮わついたカッコイイ話ではなく、

「経営者としてどういう心持ちで生きていくべきか」

を教えてくれる良書であった。

 

日本酒が好き、獺祭が好きという理由で全然構わない。

 

「獺祭」という日本酒がどういう思いで作られているか知るだけでも、

いつもの味が違ってくること間違いなしである。

 

 

旭酒造三代目の襲名

意外と知らない人が多いかもしれないが、

獺祭を作っている酒蔵は、「旭酒造(あさひしゅぞう)」である。

 

1984年、2代目の急逝がきっかけで、

桜井博志氏は3代目に襲名した。

 

亡き先代の父に勘当されていた中、

突然の後継ぎという話だったという。

 

引き継いだ時点で酒蔵の経営はどん底状態。

税務署や会計士からも見放されている状態だった。

 

その当時は、まだ獺祭という商品はなく、

改革の一歩として、「旭富士」という当時の看板商品に手を付けた。

 

少しでも売上を上げるため、

低価格の代名詞であった、紙パック式の日本酒を作ったり、

大胆な値引きや、おまけをつけて販売したり、

売店への祝い金を奮発したりなど、

出来ることは何でもやってきた。

 

しかし、所詮は小手先。表向きには売り上げが向上したように見えても

根本的な問題は解決されず、

やはり売上は低迷したままであった。

 

1980年代当時は、日本酒業界全体が下火であり、

山奥に位置する旭酒造は、

地元の酒蔵と比べ、立地が悪かったことも、後ろ風の要因であった。

 

酒蔵の社長が酒屋を必死に回って人間関係を作り、

売店に売ってもらうという営業は、

山奥の旭酒造にはなかなか厳しいものがあったということである。

 

山奥の小さな酒蔵がどうやって生き延びていくか。

小手先の、表層的なことをやっても

焼け石に水だということは失敗を繰り返し学んでいったのである。

 

 

旭酒造の酒造り

山奥の小さな酒蔵が生き残るためには、

普通のことをしていても生き残れない。

 

いくつもの失敗を繰り返し、

桜井氏は旭酒造のミッションに気が付いていく。

 

徹底的に美味しい酒を造ることが、社会への貢献であり、

旭酒造が企業として存続する価値なのだ。

 

そうして、旭酒造は、業界でも早い段階から

大吟醸造りにチャレンジしていくことを決めていった。

 

最高品質の酒米である山田錦だけを使い、

最高品質の日本酒である純米大吟醸しか作らないという

製造ポリシーに行きついていくのである。

 

ちなみに補足すると、

日本酒は酒米の精米具合と、原材料で呼び名が変化する。

 

純米大吟醸とは、酒米50%以下まで削り、

米、米麹、水だけ醸造アルコールを使わない日本酒を意味する。

 

お米を削りに削っており、甘みとうまみが色濃く出ているため、

純米大吟醸が一番うまいと世間一般的には言われている。

 

勿論、他の日本酒も様々な特徴や強みを持っているので、

他がダメというつもりは毛頭ない。

世間一般の認識では、「純米大吟醸=ウマい」、である。

 

旭酒造は日本酒造りの定説も変えていった。

もともと、日本酒造りは寒い冬に仕込むというのが当たり前であった。

 

旭酒造は、いまでは杜氏杜氏=とうじ。酒造りの責任者)を置かず、

社員だけで作り、冬だけでなく四季通して醸造することで、

最低限の製造数量を確保している。

 

よりおいしい酒を造ることを目指し、

変わることを大事にしているのが旭酒造の文化である。

 

 

 

旭酒造が変えていったこと

先述の通り、旭酒造は杜氏を置いていない。

世間では、戦略的に杜氏を置くことを辞めたのだと認識されているが、

書籍を読むと、実はそうではないということが分かった。

 

自分たちが作りたい、消費者が満足するお酒を造るには、

杜氏という酒造りの責任者の心を動かし、酒造りに挑む必要があった。

 

しかし、杜氏も雇われ人。

旭酒造が経営不振であったことや、

度重なる成功・失敗の繰り返しで、旭酒造を去ってしまった。

 

 結果的に、社員たちだけで日本酒を作ることになっていたのである。

 

冬だけ来る杜氏に頼らず、

社員だけの力で乗り切ろうとしたとき、

必然的に四季醸造にいきついたというのも納得である。

 

また、旭酒造は、酒米にもこだわった。

満足いく酒米もなく、自分たちで酒米を作ろうとしたこともあった。

 

結果としては、自分たちでの酒米づくりには失敗したようだが、

自分たちでやってみたことで初めて、

経団連からの圧力や、農業関係者の新しいことをやりたくない価値観を理解した。

 

こうして、県や農協に縛られず、日本中から良い米を買ってくるという、

旭酒造のやり方が生まれてきたと言っている。

 

ちなみに、桜井氏は、山口県内では、

経団連を通して、米を一俵たりとも買わないと啖呵を切り、

それが今でも続いているというから驚きである。

 

まとめ

経営のどん底から社長に就任した桜井氏は、

自分たちの酒蔵が生き残るために、

ありとあらゆることに挑戦し、変えるべきものは変えていった。

 

杜氏が酒を造るという価値観を変え、

冬だけではなく、一年中酒を造ることとし、

地元山口ではなく、東京をはじめとする他地方へも進出し、

酒米も、地元では手に入りにくい山田錦に変えていった。

 

 

どれも「旭酒造が業界初めて取り組んだ」というものではない。

生き残るために、他の酒造での事例を取り込んだという理解が正しい。

 

しかし、唯一変えなかったものがある。

「お客様に本当に美味しい酒を提供するのが、自分たちの存在意義だ」

という、普遍的な価値観だけは変えることはなかった

 

うまくいった話もあるが、失敗した話はそれ以上にある。

業界から見放され、異端扱いされてきたからこそ、

失うものもなく、新しいことにチャレンジできたとのことだ。

 

日本酒業界に携わる者にとっては身に染みる話かもしれないし、

違う分野で活躍する人間にとっても、

見習うべき話がたくさん盛り込まれている。